ユーロ2024
ユーロ2024
6月15日の早朝4時、ドイツ-スコットランドの開幕戦から、楽しみにしていたユーロ2024が始まった。4時キックオフの試合を連日、興奮して観た。あっという間にグループステージが終わってしまった。6月の早朝は、試合開始と同時に空が白みはじめ、試合終了にはすっかり明るくなっている。素晴らしい試合に興奮し、感動してしまった後には、1日の始まりなのに、もう1日が終わってしまっても良いと思ってしまう。そのような試合が数多くあった。グループリーグでの質の高い内容で、これぞユーロと言わしめる力がある。
グループステージのNo1の試合は、第3戦でのイタリア-クロアチアである。
最後まで何が起こるか分からないのがサッカーであり、何が起きてもおかしくはないのがサッカーであることを、改めて思い知らされた試合だった。
前半を0-0で折り返し、後半に試合が動いた。フラッテージのハンドがVAR判定でPKとなってしまった。モドリッチのキックをドンナルンマが阻止。その直後の連続する攻撃で、またもドンナルンマがセーブするも、そのこぼれ球をモドリッチがゴールに押し込んだ。とても興奮する好シーンだった。
僕はイタリア推しなので、何としても同点、そこからの逆転を願っていたけれど、時間は進みアディショナルタイム8分となってしまった。そしてラストプレー、今大会No1のイケメンだと思っているカラフィオーリがゴール前までドリブルで運んで左に展開、ザッカーニがデルピエロゾーンからダイレクトでシュート。美しい放物線を描きながらクロアチアゴールへと吸い込まれていった。そのまま試合終了。
2006年ドイツワールドカップ、準決勝ドイツ戦でのデルピエロのゴールを思い起こさせたゴールだった。この試合を観られただけで、ユーロが終わってもいいと思ってしまうほど、感動的で劇的なゴールと幕切れだった。
決勝トーナメントでのイタリアに期待したい。
『カルチョの休日』
サッカー本 0115
『カルチョの休日』

著 者 宮崎隆司
発行所 内外出版社
2018年8月5日発行
タイトル、表紙、内容と3拍子揃った満足できる本(ついでに価格も)になかなか出会うことは少ない。この『カルチョの休日』は、タイトルに魅かれ、表紙の絵に引き込まれ、本を開くと内容に飲み込まれてしまうサッカー本の中でも飛び抜けている本である。
イタリアの日常(もちろんイタリアの日常はサッカーを中心としている)生活での、庶民的な側面を紹介していて、日本のサッカー文化との大きな違いを楽しみながら知ることができる。
イタリアでは家族や親戚、友人に男の子が生まれると、誰かが決まってサッカーボールをプレゼントします。
この国には「サッカーボールは最高のおもちゃだ」という言葉があり、人々はサッカーに勝る喜びはないと信じています。映画、テレビ、アニメ、ゲームといった娯楽が次々と生まれてきましたが、サッカーはいつの時代も王様です。
著者の息子が6歳からサッカーを始める。所属する街クラブのサッカー、保護者、それを取り巻く人々、そしてイタリアのサッカー環境を、日本人として、1人の父親として見つめる視点が絶妙に良い。
第4章の『イタリアの親とサッカーの距離感』、第5章の『愛情と情熱にあふれるイタリアの指導者』の2章は、サッカーの大国(狂国)の国民性、サッカーに対する造詣の深さが伝わってくる。
イタリアでは、サッカーは日本と比較にならないほど大きな地位を占めています。そして百年以上にわたって、このスポーツにのめり込んできたイタリア人の人々は、それゆえに頂点の果てしない高さを知っています。~略~
そしてまた、イタリア人の人々はもっと大事なことを知っています。それはプロになって成功を収めることが、人生のすべてではないということ。~略~
サッカー場は愛するわが子が一番輝く場所だと語る父親たちは、試合へ向かう息子に「がんばれ」とは決して言いません。彼らが言うのはいつだってこの一言です。
「思いっきり楽しんでこい」
著者の人生を変えてしまったのは、イタリアが生んだ希代のファンタジスタ、ロベルト・バッジョである。バッジョにのめり込んでから8年後、バジョを代表に呼ぶべきか否かの大論争となり、それがメディア主催の国民投票に発展する。バジョに1票を入れるためにイタリア移民となることを決意する。他の本では知りえることができないイタリアのサッカーが詰め込まれている。読んでおいて間違いのないサッカー本の1冊である。
『スポーツ哲学者と共に考える「みんなのサッカー幸福論」』
サッカー本 0114
『スポーツ哲学者と共に考える「みんなのサッカー幸福論」』

著 者 島田 哲夫
発行所 Days ブックス
2021年10月25日発行
体裁は、本というか、大学の授業で使用するサブテキストのような、冊子のような本である。またスポーツ哲学者の文章だけあって、模試に出てきそうな内容と表現であり、優しく誰でも理解できるような感じであるけれど、説いていることはシンプルな故に難しいと感じる。「スポーツとは何か、サッカーとは何か」を考える「きっかけ」を作ることのできる本である。
この本の特徴がもう1つあり、東京オリンピック後に絡めた内容があり、コロナ渦に書かれた内容であるので、時代性という部分でも興味深い考察がされている。
現在の状況下であっても、いやこのような過渡期の状況下であるからこそ、哲学する目的を貫徹しようと決意するならば、コロナ前、コロナ渦、コロナ後という三つのフェーズにおいて、「サッカーとは何か」と哲学し、三つのフェーズに共通する、あらたな概念を生み出し、世界の見方を変え、この状況下を超克する必要があります。
著者は「サッカーは虹の架け橋である」と言い、多様な人びとが橋を渡り、「何か」と「何か」を結び付ける役割を持つと言っている。同時に「サッカーは人の心に豊饒さをもたらす華ではないか」とも言い、サッカーが人々を魅了され続けることを哲学的に考察している。
「サッカーとは何か」を哲学という側面からアプローチすることも必要だと思わせる本となっている。
「哲学」は、これまで「当たり前」だとなんの疑問も抱かなかった事象や行為や心理に、「それは一体なんだろうか」、「それは一体なぜ起こるのか」、「それがもしなくなると、どういうことになるのか」、「それはなぜ生まれたのか」、つまり「~とはなにか」という問いを自分自身で発し、その解を自分自身の思考の力で得ようとする営為なのです。
ここ近年、考えること、考えなければならないことをより求められるサッカー界である。試合前、試合中、試合後、トレーニングにおいても、リアルタイムで、またその状況後においても、「考えること」が求められる。「考えること」自体、身につけなければならない能力となっている。読み方によっては、多くの示唆を与えられる内容となっている。
『サッカー店長の戦術入門』
サッカー本 0113
『サッカー店長の戦術入門』
「ポジショナル」vs.「ストーミング」の未来

著 者 龍岡 歩
発行所 光文社新書
2022年2月28日発行
日本はサッカーの中でも特に戦術が好きな民族である。長い年月にわたり多くの戦術本が出版されている中で、ここ2、3年内で一番インパクトのある本が『サッカー店長の戦術入門』である。分かりやすい文章でありながら内容にパンチ力がある。鋭い分析と深い洞察から導かれる著者の独創的な結論が、新鮮かつ斬新である。
Jリーグ開幕戦に衝撃を受け、12歳から毎日ノートに戦術を記し徹底的に研究。サッカーを観る目を鍛えるため、19歳から欧州と南米へと放浪の旅に。28歳からサッカーショップの店長を務めるとともに、ブログ『サッカー店長のつれづれなる日記』を始める。超長文の記事が評判となり、現・スポーツX社に鋭い考察を評価され入社。サッカー未経験者ながら、当時同社が経営していた藤枝MYFC(J3)の戦術分析長として4シーズン在籍。現在はJFL昇格を目指すおこしやす京都ACの戦術兼分析官を務める。
興味深い人生を歩む著者が初めて出版する本であり、3部・13章の構成となっている。その中でも、第1部「現代サッカーの異常な発達」は必読である。個人的にも著者と意見を同じくするのだけれど、2010年代は、100年のサッカーの歴史の中でも、異常と思えるほどに急速に戦術が進化したと思っている。サブタイトルにあるとおり「ポジショナル」vs「ストーミング」の歴史、または打倒バルサ、打倒ペップの歴史であるといっていい。
第3部の「現代サッカーはどこにいくのか」も必読であり、著者の戦術眼、意図、洞察を汲み取りたい。
今後の流れとして、従来の定点的なポジションに縛られた平面的なプレイヤーはますます時代に淘汰されていくと考えられる。いかにポジションの束縛から自由に振舞い、自らの判断によってピッチ上に現れては消える「未来のスペース」から逆算したポジショニングを取れるか。それを可能にする選手こそが主役になっていくのではないか。
この本が魅力的な理由の1つとして、分析する着眼点とサッカーに対しての表現の仕方が、読者を引き付けるのではないかと思える。今までにない表現は、試合全般、また局面における言語化、可視化に成功していて、これまでのプロの分析にはない読ませる文章である。結局は、著者はプロの戦術官になってしまったけれど、12歳の時に見たJリーグの開幕戦に衝撃を受け、そこからのサッカーと共に歩む人生は「まえがき」に書いてある通りである。「人生の中にサッカーがある」のではなく、「サッカーの中に人生がある」のである。
『ベッケンバウアー自伝』「皇帝」と呼ばれた男
サッカー本 0112
『ベッケンバウアー自伝』「皇帝」と呼ばれた男

著 者 フランツ・ベッケンバウアー
訳 者 沼尻正之
発行所 中央公論新社
2006年5月25日発行
世界のサッカー界に大きな影響を与えたフランツ・ベッケンバウアーが死去した。ドイツのレジェンドであり、サッカー界最高の選手の1人であるベッケンバウアーに哀悼の意を込めて、ベッケンバウアーの自伝を紹介する。
ベッケンバウアーと言うと、ペレ、クライフに並ぶ世界のスーパースターである。選手、監督としてワールドカップで優勝した偉大な実績があり、西ドイツのベッケンバウアー、アディダスのベッケンバウアーというイメージが、僕の中では強烈に残っている。
この自伝は、サッカー選手・監督が著した自伝の中でも、特に読み応えのある本である。どっしりとしていて重たく、物語的である。ドイツ的というかベッケンバウアー的というか、なんとも固い自伝であり、読み物として耐え得ることができる内容である。サッカー選手・監督の自伝としては、トップに位置することのできる自伝であると思う。
「未来に向かって ――リベロとして生きる」抜粋
ミュンヘンのゼーベナー通りにあるグラウンドで、2つの少年チームが試合をしている。彼らはまだ本当に子どもで、12歳くらいである。片方のチームは、FCバイエルンの少年チームであり、もう片方は、近隣の田舎のチームであった。基本的にはバイエルンはいつでも勝ち、たまに接戦のことがあるぐらいであった。今回もバイエルンは相手を圧倒しており、選手の中には少し手を抜いたり、いいかげんなプレーをする者が現れた。特にその内1人は、味方に指示を送るだけで、自分ではプレーしないと決めているようであった。しかし監督はそうしたことを許さず、彼に向かって叫んだ「もっと走れ!」
その子どもは後ろを振り向き、叫び返した。「お父さんだって、そんなに走らずに、世界チャンピオンになったじゃないか」。
息子のシュテファンもまた・・・・。
私のプレーや私の人生を見てきた人たちは、私がいかにも簡単そうにプレーするところや、何の苦労もなくすべてをこなしてきているように見えるところを見て、よく誤解するのである。
フランツ・ベッケンバウアーのふところには、欲しいものがいつも、向こうから飛び込んでくる、そう思われているかのようである。しかしもちろん、そんなことはない。私が心の中で抑圧し、忘れていた様々なことが、この本を書くという作業の過程で、再び頭の中によみがえってきた。その中には、ほとんど身体で感じた楽しいこともあったが、それだけでなく、痛みやつらい経験をも身体は忘れていなかった。
ベッケンバウアーがいる場所は、いつも上の方であり、そこにはいつも太陽が輝いている。
確かにそういうこともあったかもしれない。しかしいつもではなかった。私は、自分をここまで導いてきた運命に対して、文句を言うつもりはない。しかし、いいことばかりの人生だったわけでもない。また私は確かにサッカーの才能に恵まれていたかもしれないが、しかしそれがすぐに成功に結びつくという保証があったわけでもない。サッカー選手として成功するためには、才能以外にも多くのものが必要であり、それを私は自分の力で勝ち取ったのである。周りの人たちには簡単そうに見えたかもしれないが、私自身は必死であった。多くの人たちは今でも、私が何でもやすやすとこなす男だと思っているようだ。フランツ・ベッケンバウアーは、幸運に恵まれた男だと。
そんなふうに私は生きてきた。確かに私は、多くのものを天から授かった。幸運というのは、学んで手に入るものではない。しかしそれを自分のものにするために、人は学び続けなければならない。そうでなければそれは、思ったよりも価値のないものになってしまうのである。
『強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ。』
ベッケンバウアーの一番有名な名言が心に沁みる。