本の沼 サッカーの森

本の沼にはまり、サッカーの森を彷徨う

『「言語技術」が日本のサッカーを変える』

サッカー本 0018

 

『「言語技術」が日本のサッカーを変える』

f:id:nirasakishikibu:20190814202719j:plain

著 者 田島幸三

発行所 光文社
2007年11月20日
 
著者は言わずと知れた、現日本サッカー協会(JFC)の会長である。この本が出版された時(9年前)は、まさかこの地位まで上り詰める人間だとは思いもよらなかった。高校サッカー選手権、首都圏開催の前年のチャンピオン浦和南のメンバーである。
田島幸三のキャリアは日韓ワールドカップ後の、日本サッカー協会の技術委員長から着実なものになっていった。この時代頃から、日本サッカー協会の出版物、そしてサッカークリニックを代表する技術専門誌に多く「言語技術」、「ロジカル・コミュニケーション」というワードが頻繁に出てきた。選手達に「考える力」を求める指導方法、「論理的に考え、自分の言葉で表現する」メソッドに重点が置かれた。
 
例えば指導者が「今、なぜシュートを打たずに、パスしたの」とか「今、何がしたかったの」という自分のプレーに対し「考える習慣」「意図したプレー」を日々の練習、試合に付加した。当時は、画期的なことであった。
 
今では当たり前になってしまったけれど、「バカ蹴り」または「ボカ蹴り」といわれる「目的のないキック」「意図のないキック」に関しての問題提起と日本全体への落とし込みは、田島幸三の功績と言えるのではないかと思う。
 
ただ、僕の田島幸三の嫌いなところは「全ての選手が同じビジョンンで、明確なコンセプトに従って育成される」という信念が強すぎることである。いろいろな人間がいて、いろいろなサッカーがあって然りだと思う。日本サッカー協会が発信する情報が全てでなく、それに従わないものは異端で括るのは良くないと思っている。
 
この本を是非、韮高サッカー部の部員に読んで欲しいと思う。著者のいう「自分の考えをことばにする表現力」が韮高サッカー部には足りないのではないだろうか。本文にある「論理的に筋道をたてて、理由を明快に示し、自分なりの考えを話すことができる子どもが、いったいどれくらいいるでしょうか」である。(韮高サッカー部内にも・・・)
著者は、日本人には二つの問題があると言っている。
「自分が考えていることをことばに出して明快に表現することが身についていない点」
「論理を求められると、一つの正解だけを探し求めようとてしてしまう点」
 
試合中の選手たちを見ているとよく分かる。修正力、自分はこうしたいのだという表現ができる選手が多くいる高校は、県内では試合を見る限り山梨学院だと思う。学院は自分でないチームメイトに伝える言葉を一番持っている。
一方の韮高は黙々とサッカーをやっているイメージである。「もっと寄せろ」とか「あと1m前にパスをくれ」とか試合中、プレー後の意見交換が少ないような気がする。
 
言語技術を身につけたら、監督ともトレーニングメニューから試合の戦術まで、普通に対話できるのではないだろうか。部員からの質問に対し、「いいからやれ」とは言わないのではないだろうか。頭脳も経験もある先生なのだから、しっかりと答えてくれるのではないか。
 
選手:「監督、どうして走る練習ばかりするのですか。走ってばかりいて、勝てますか」
監督:「君はどう思う」
選手:「・・・・」
 
選手が自分なりの明確な勝つためのビジョンを持っていなければ、「・・・・」のようになってしまうだろう。
 
選手:「走ってばかりでは勝てませんよ。なぜならば・・・・」に続く言葉を用意しないと、そしてそれを監督に伝えることができないと、韮高サッカー部の選手権への道は遠い。ロジカルコミュニケーション、クリエイティブシンキングは、サッカーだけにとどまらない。これから先、社会に出た時もこの言語技術は必ず役立つ。むしろそちらの方がメリットが多いかもしれない。さらにレベルを上げなければないスキルの一つである。